バブルの足音が近付く1984年。
まちょの家に初期型ファミコンがあった。
1983年に登場したファミコンは発売当初、人気は低迷。
製造中止が囁かれる中、本体やソフトは半額近くで叩き売りされていた。
弟がそれを購入した後まもなく、ブームが起こった。
1987年春。
日本は空前のファミコンブームに沸いていた。
本体は品薄で強気の定価売り。
人気ソフトは行列が並び、クソゲとの抱き合わせが日常茶飯事だった。
皆取り憑かれたようにゲーム屋へ向かい、こぞってソフトを買い漁った。
その中に、ある一人の男の姿があった。
これは、まちょが人生初のネットに触れた物語である
♪風の中のス〜バル〜 砂の中のギ〜ンガ〜
まちょはアーケードゲームの移殖モノが好きだった。
家庭用で練習すればゲーセンで長く遊べ、使う金額を節約できる。
雑誌の評価の裏を読み取り、移殖度の高いものばかりを厳選して購入。
FC版エグゼドエグゼスに騙された痛い経験からだった。
当時ハマっていたアーケードゲームはファンタジーゾーン。
シューティングゲームに掟破りのアイテム購入性を導入。
FM音源によるリズムのよいサンバ調のミュージック。
まだ、アーケードさえ原色の強い硬派なゲームが多かった中
パステル調の可愛いグラフィックが多重スクロールする姿に感動した。
そのどれもが斬新で新鮮だった。
このゲームの表現は52色しかないファミコンでは到底不可能だ。
色数の少ないファミコンでは表現が不可能なものが増えつつあった。
大容量と謳われたFCディスクシステムと同じ容量の1Mカートリッジ。
当時これ以上のものはなかった。
まちょはセガmkIIIを手に入れた。
弟の友達の中古を安く譲ってもらったモノだった。
出来はイマイチと思ったが、念願のファンタジーゾーンをやりまくった。
不可能だと言われたスペースハリアーの移殖に衝撃を受けた。
買ったmkIIIソフトの数はファミコンの倍以上になった。
ディスクシステムの4倍の容量を持つ史上初の4Mカートリッジ。
中身がチップで詰まってズッシリと重かった。
アニメーションして攻撃してくる敵モンスター
なめらかな3Dダンジョン
パスワード不要のバックアップセーブ。
性能を限界まで引き出し、全てがファミコンのレベルを超えていた。
最先端を行くセガの技術力に震えた。
破格といわれる価格で良心的だった。
アーケードトップメーカーの意地と底力をみた。
まちょはセガ信者となった。
10本に満たないスーパーファミコンのソフトに対し
部屋の棚に積み上げられたメガドライブのソフトは百本を数えた。
かつて追い求めていたアーケード完全移殖はほぼ全て手中にした。
満足した。
毎回セガハードは初期出荷数が需要に満たず、
発売日に手に入れるのが至難の業だった。
メガドラもメガCDもサターンの時も、いつも走り周って探した。
それまでの経験からドリキャスは予約した。
同時発売だったはずのセガラリー2は発売が延期していた。
手元にはハードと一緒に購入したバーチャファイター3tb。
画面が綺麗で驚いた。ついに家庭でここまで出来る時代がきた。
ワクワクしながらスタートボタンを押した。
…つまらなかった。
格闘モノはサターンのVFシリーズを散々やった。
VF3は綺麗になってもプレイ自体の目新しさがなかった。
すぐに飽きてしまった。
しかしハード発売直後。他に代わる面白いソフトが出てない。
期待のセガラリーの発売予定は年を跨いだ。
最新の機能があるのに遊ぶべきソフトがない。
途方にくれた。
まちょはドリキャスの横面に標準装備されているモデムをみた。
無駄な装備だと思っていた。
セガはメガドラやサターンの頃からモデムをオプション投入していた。
しかし、ことごとく失敗。
セガはいつも時代の先を走りすぎると言われていた。
ネットに興味はあった。
しかし通信費が怖く手を出さなかった。
月々の通信の金を払うなら新しいソフトが買える。そう思った。
サターン用ネットを雑誌で調べた事があった。
解像度が低すぎて表示ページ全体が見渡せない。
モデムは通信速度が当時主流のPCの半分しかなかった。
不満点の方が大きく手を出しあぐねていた。
しかし本格的にやるには当時20万円以上するPCが必要だ。
とてもそんな金を出す余裕はない。
ドリキャスは自社プロバイダテスト中でISP料金がタダだった。
電話代だけで済む。大きな魅力だった。
試してみよう。
つまらなければやめればいい。
少しでも無料期間を長く遊ぶなら早ければ早い方がいい。
まちょはすぐにキーボードを買ってきた。
電話線を繋ぐ。
驚いた。
日本中だけでなく世界中の情報が手に入り生の声がきける。
調べたい事は検索すればすぐにみつかる。
世界が大きく拡がった気がした。
ハマった。
これは凄いと思った。
僅か3万円のゲーム機でこれだけの事が出来るとは思わなかった。
間もなくドリキャスのキーボードは品薄となった。品薄は半年続いた。
パッドで入力するドリキャスネットユーザーの悲鳴が聴こえた。
セガの周辺機器が手に入らないのはいつもの事だ。
これまでの経験から素早く手に入れた事に優越感をもった。
当初2ヶ月と言われたプロバイダのテスト期間は延びに延び、
気がつけば1年半もタダだった。
最初、有料になればやめるつもりで始めたネットは
課金後も喜んで料金を支払うようになっていた。
楽しさの余りテレホ時間外に繋いだら電話代が月2万円を越えていた。
ビビった。
購入したソフトはこれまでのセガハードで最も少なかった。
しかし1本1本の密度が濃かった。
1年以上遊べる飽きにくい良質ソフトが多いが故だった。
ソフトの数に反し、ドリキャスはこれまでのセガハードで最も稼動した。
それはゲームだけではなく、ネットマシンとして動いたからだった。
ドリキャスがなければ、私のネットデビューは3年遅れていただろう。
後に、まちょはそう言った。
あの時始めなければ出会えなかった多くの人がいた。別れがあった。
楽しい事や人生を揺るがす悲しい事があった。
そのどれもが貴重な経験となった。
♪語り〜継〜ぐ人も〜な〜く 吹き〜すさ〜ぶ風の中へ〜
折りしも出口の見えない不況。
無縁だと言われたゲーム業界も不況となった。
赤字だったセガは家庭用ハードから撤退。
お家芸の破格な良心価格が裏目にでた。
ブロードバンド普及を待たずして、ドリキャスは製造中止となった。
ドリキャスのネット仲間たちは皆、PCへ移って行った。
宿敵PS2へ寝返る気はしなかった。メーカー体質が嫌だった。
皆を追うように、まちょもPCへ移った。
時代はPCの価格を半分へと下げていた。
♪ヘ〜ッドラ〜イト テ〜ルライ〜ト 旅は〜まだ〜おわらない〜〜
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